頭の中のセロトニンの行方

サブカルメンヘラが何か書く

人生は選択の連続

前回の記事はいったん置いておいて

思ったことがあるので先にそれを書きます.





人生は選択の連続って言うけど

本当にその通りだなあとつくづく思う.




自分の選択に責任が伴うとするなら、
選択をした後のことも考えないといけない.

無下に「自分が選択したことだから」
と言えばなんでも清算できるとは、
僕は全く思ってなくて.



例えばそれは人の死が絡んできた時とか強く感じる.
「自分の生死は自分で決める.自由だ!」
っていうのがあると思うんだけど、
まあ、それはその通り、自由なんだよね.

(死んではいけないという法律は無いけど
倫理とか出てくるとまた別.)




そして、その死にはたくさんの人間が関与していく.
自分自身、知人、親をはじめに
警察、葬儀社、坊主、牧師…
もっと広げるなら、
火葬場を設計した人、建築した人、その土地の所有者etc…





迷惑の範疇をどこまでにするかって議論は
ここではしないとして話を進めると、
「死ぬ」ってことは、
少なからず誰かに迷惑をかけてるわけで.

(特に自殺だと警察の検死(?)が入って
葬儀社を残された人が決めて
通夜、葬儀からの火葬
っていう手はずだから1番困るのは近親者かな.)




身近な関係性のみ見るなら
良いのかもしれないけど、
社会は複雑に人との関係が
絡み合って形成されてるものだから、
「誰にも迷惑をかけずに死ぬ」って言うのは
無理に等しいと思えてきちゃうんだよね.







"自殺"って言うのは自己満足的な行動の一種で、
「自分の欲を満たすには多少の犠牲も生じる」
って言っちゃえばそれまでだけど、
本当にそれが正しい選択なのかって言ったら、
一概に言えなくない?っていう.



死んだところで自分の思考は止められるけど、
その影響がどんな形であれ波及して、
他人を刺激してそれによってまた人が死ぬ.
考えれば考えるほど悪循環だなあ、って.






すぐさま人生が左右されるような
選択しなくちゃいけないなんて
カイジかウシジマくんの世界でくらいしか見たことないし、
もう少し先延ばしにしてみませんか?
って思ってしまう.




先延ばしにしても状況が改善されないって
金銭関係か性関係、締め切りとか
たくさんあると思う.


けれど一般的に言われる
"生活"がある程度できてると仮定して言うと
"生死"に関しての選択は先延ばしにしても、
大きな不利益は無いし
自分自身が他人の不利益になってるという
関係妄想だけで終わると思うんだ.
(僕、めっちゃそれありまーす.)



だからもうそこは
自分の思考との戦いだなあ、と.
それを放棄するか否かはもう、
自分自身の選択になるし
その選択をした後始末が完璧にできるのなら
自殺なりなんなり自由にしていい気がする.









なんて偉そうなことをつらつら言ったけど、
SNS上やリアルで繋がった人が死ぬのは辛いから
辛いなあ、って思ってる人間も
どこかにはいるってことを忘れないで下さい、へけ







おわり