頭の中のセロトニンの行方

サブカルメンヘラが何か書く

葬儀が葬儀に出席した話

自分で書いた文章を推敲しようと思って
読み返すたびに泣いていたので
落ち着くまで詰んでたら
投稿が遅くなってしまった…

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1月の初め親族が死んだ.

僕はその人からは割と遠い血縁だけど
その人とは小さい頃から交流があって
割と身近な存在だった.

なので訃報を聞いた時、絶望した.
今までの記憶が一気に駆け巡った.

小さい時は掘りごたつで
みかんや干し芋をもらって食べたり.
外にある汲み取りのトイレが怖いと騒いで笑われたり.
はとこたちと遊びまわってるのを見守ってもらったりした.

ある程度大きくなると
農作業の休憩で一緒にお菓子を食べたり
都内の電車の話をしたり、進路や家の話もした.


僕の性格を形成してくれた人たちの中の一人だ.

当時、祖父母や母親からは
与えてもらえなかった「優しさ」という部分を
補ってくれていた存在なのかもしれない
と今になると思う…そのくらい大切な人だ.



葬儀当日、納棺にも参加して、
冷たくなった手に触れた時
その人の死を実感できた.

いつかの農作業の時、
「手の厚みは人によって違う」
という話で盛り上がった際に
触らせてもらった手と厚みは変わらなくて、
その温かくて大きな手は
氷のように冷たくなってしまっていた.

いくら僕が触ったとしても、
再び温かくはならないと理解した瞬間、
涙が溢れて止まらなくなった.


納棺もそうだけど
火葬するための窯に棺が入れられる時も
とても「死」というものを実感できた.
(そして号泣するという流れ…)

「人という形ですらなくなる」と思うと、
生きていた姿が思い出されちゃうんだなあ、と.



そんな感じで、火葬まで済んで
骨になったその人(ではないけど)に対面して
僕はすっと涙が引いた.

「あ、これで本当にこの人とはお別れなんだな、人が人でなくなったんだ」と理解ができた.

今まで葬儀なんて意味ないのでは?なんて思ってたけど、
通過儀礼として重要なものなんだと実感できた.
人が人で無くなる過程を、自分の目で見て確認することで、死を理解(?)するものなんだと.



そしてここから先は周りの人の話.

要所要所あんまりにも僕が泣くもんで、
介護系の仕事をしてる親族達に
「まあ、そんなに泣いても死ぬのなんて順番だからw」
ってケロっとしながら言われたのが印象的だった. 


人の生死に関わる仕事をしている親族がとても多いのだけど、
その人達は「冷めてる」というよりも
「落ち着いてる」という感じだった.

「誰でもいつか死ぬし、それがいつかなんて誰もわからないんだよ」みたいな.

常日頃から変死や胎児(?)、老衰の亡くなった人を見ていればそういった考えにも至るよな、とかそういう考え方でいないと、
自分の心がもたないよな、なんて思えた.

そしてちょっとのユーモア(?)みたいなものもないと、人は人の死というものと向き合えないのかもしれない.


葬儀でも医療関係者の人たちは
笑顔というか、なんというか.
僕みたいにわんわん泣いてはなかったんだよね.

「おじさんあんこ好きだったでしょ?あんこ玉買ってきたから…」
「口の真横においてあげてwww三途の川の前で食べるでしょww」とか

「じいさん、帽子が好きだったから…」
「え?ちょっと、手持ちの帽子全部入れんの!?w」とか…

おちゃらけ とまではいかないけど、
ほんの少しのユーモア?みたいなのを感じた.
笑顔で送り出せば、その人も笑顔になるっしょ!
みたいな感じなのかな…(?)
僕はそんな強いメンタルないよ……


それとお坊さんの話が印象に残ってる.
「葬儀や四十九日が終わっても、時折、思い出してあげることが、故人にとって1番の幸せだと思います」って.


死んでから四十九日までの間は7日にいっぺん菩薩?仏?になるために修行だか試練を受けなくちゃいけないから、そのくらいのタイミングで思い出してあげてください.

みたいなことも言ってた気がするんだけど、
号泣してたからはっきり覚えてないや.


でも、全く忘れ去られちゃうより
「あ、あの時楽しかったよねえ」とか
「この話はあの人から聞いたやつだ」
みたいに思い出してもらえるとしたら
本望だな、なんて思った.

ちなみに僕はそういうのをすぐ思い出してシクシクするタイプです.
なのでこれを読んでる皆さんは是非とも死なないでください.




あと関係ないんだけど、
僕は死んだら関西式のやり方で骨壷に入りきらなかった骨は処分してもらおうと思った!
なので異様にちっっっっさくて素敵な骨壷を
生きてるうちに探しておきたい.


なんかまとまりのない文章で読みづらいなあ.
以後気をつけよう…


そんな感じ.   おわり.

マニュアル、教科書はどこにある?

人生にはマニュアルは無くて

生きていく中で
自分の考え方をある程度固め、修正して
「こうしていきたい」とか目標や考え方が
不鮮明ながら確立されていく.



だけど、そのマニュアルが無く
不鮮明なものだということが、
事実に基づいてしか解釈できない
僕にとってはすごく困惑することなのだ.

教科書や参考書、辞書のように
目に見えてわかりやすい
そして、記録上、歴史上にも残っているものを参考にしないと
自分の考え方に確信が得られない.
人からの相対的な評価もなかなかに困惑する.

(評価されるのが嫌だとかいうわけでなく、
その評価自体が良かれ悪かれ
本当に正しいものなのか
という疑問を持ってしまうため.)




だから「生きる」っていうのは
正しさの指標や教科書がないし、
人によって捉え方が様々なので
非常に厄介なものだなと感じる.


「幸せ」とかもとても曖昧で
自分がどの社会階層にいるかでも変わってくるものだと思う.

「幸せ」だと思っていることが、
本当は「不幸せ」な可能性もあるわけだし、
一概に今起こっていることが
「幸せ」であると言えない.

これは「幸せ」を「不幸せ」に置き換えても言えることだと思う.





不鮮明で厄介な
「幸せ」に「生きる」ことに関して
教科書があれば
もっと生きやすくなる人もいるだろうし、
バカ真面目に教科書の内容を受け止めて
その通りにしか行動できない人も出てくるだろう.
(どっちがいい悪いとかないけど).


じゃあ、教科書がない中
どう生きていけばいいのかって話になるけど、
極論を言えば「じゃあ、死ぬか!」
ってなってもおかしくないと思ってる.
(死なないでくり〜〜〜).

自分の人生だし自分が好きなように選択する、
誰も「不幸せ」にしない、
教科書がないなら「生きる」意味がない、
とか考えていて
これ以上辛さと対峙できないとかならだけど.




そんな暴論(?)を吐きつつ
「せっかく生まれたんだから、なんとなくでも生きたいなあ」
と思えるようになった僕の場合は
サンプルをいかに増やすかが
課題になってるな、と感じている.
つまり他人を教科書の代わりにするってことですね.


現実で起きていたり、起こったことを
誰かから聞くなり読むなりして
自分の頭の中に情報を蓄積させ、
それを並べて紐付けていくだけでも
マニュアルや教科書がないなりに
「生きる」ことができるかな.
「生きる」ことを放棄しないで済むのかなあと.



他者がどう考えて生きているか、
そして僕はそれを見聞きしどう感じるのか、
そういう今起こっている事実を見ることしか
今の僕にはできない.
今を精一杯、不鮮明な「生きる」という
課題と向き合うにはこの方法が最善かなと.




しかしそのサンプルが少ないったらありゃしない.

なぜかって?
周りにそんな真面目な話に付き合ってくれる
友人がいないからだよ!!!!笑
白い目で見られちゃうんだよ!!笑


なのでツイッターのFFさん、
僕のサンプルになってください(?)
なんでもしまry





おわり

人生は選択の連続

前回の記事はいったん置いておいて

思ったことがあるので先にそれを書きます.





人生は選択の連続って言うけど

本当にその通りだなあとつくづく思う.




自分の選択に責任が伴うとするなら、
選択をした後のことも考えないといけない.

無下に「自分が選択したことだから」
と言えばなんでも清算できるとは、
僕は全く思ってなくて.



例えばそれは人の死が絡んできた時とか強く感じる.
「自分の生死は自分で決める.自由だ!」
っていうのがあると思うんだけど、
まあ、それはその通り、自由なんだよね.

(死んではいけないという法律は無いけど
倫理とか出てくるとまた別.)




そして、その死にはたくさんの人間が関与していく.
自分自身、知人、親をはじめに
警察、葬儀社、坊主、牧師…
もっと広げるなら、
火葬場を設計した人、建築した人、その土地の所有者etc…





迷惑の範疇をどこまでにするかって議論は
ここではしないとして話を進めると、
「死ぬ」ってことは、
少なからず誰かに迷惑をかけてるわけで.

(特に自殺だと警察の検死(?)が入って
葬儀社を残された人が決めて
通夜、葬儀からの火葬
っていう手はずだから1番困るのは近親者かな.)




身近な関係性のみ見るなら
良いのかもしれないけど、
社会は複雑に人との関係が
絡み合って形成されてるものだから、
「誰にも迷惑をかけずに死ぬ」って言うのは
無理に等しいと思えてきちゃうんだよね.







"自殺"って言うのは自己満足的な行動の一種で、
「自分の欲を満たすには多少の犠牲も生じる」
って言っちゃえばそれまでだけど、
本当にそれが正しい選択なのかって言ったら、
一概に言えなくない?っていう.



死んだところで自分の思考は止められるけど、
その影響がどんな形であれ波及して、
他人を刺激してそれによってまた人が死ぬ.
考えれば考えるほど悪循環だなあ、って.






すぐさま人生が左右されるような
選択しなくちゃいけないなんて
カイジかウシジマくんの世界でくらいしか見たことないし、
もう少し先延ばしにしてみませんか?
って思ってしまう.




先延ばしにしても状況が改善されないって
金銭関係か性関係、締め切りとか
たくさんあると思う.


けれど一般的に言われる
"生活"がある程度できてると仮定して言うと
"生死"に関しての選択は先延ばしにしても、
大きな不利益は無いし
自分自身が他人の不利益になってるという
関係妄想だけで終わると思うんだ.
(僕、めっちゃそれありまーす.)



だからもうそこは
自分の思考との戦いだなあ、と.
それを放棄するか否かはもう、
自分自身の選択になるし
その選択をした後始末が完璧にできるのなら
自殺なりなんなり自由にしていい気がする.









なんて偉そうなことをつらつら言ったけど、
SNS上やリアルで繋がった人が死ぬのは辛いから
辛いなあ、って思ってる人間も
どこかにはいるってことを忘れないで下さい、へけ







おわり

ズレてる人間製造法

なんか今日はセンチ(死語)な気分なんで

それっぽい記事を書きます.






ちょっとズレてる人間が

出来上がってしまう原因を

自分の経験を踏まえた上で書いているので…




心理学をやってない人間が何言ってんだwww

という批判とかツッコミどころがあっても

「素人やんけ、クソか」

くらいで終わらせてください(おなしゃす)













ちょっと普通とズレちゃった人間が

出来上がる条件みたいのがあると思ってて

ちょっと列挙してみます.





・家庭環境

ex.離婚、ネグレクト、借金、両親の不仲


・周囲の環境

ex.学校で孤立、頼れる人間がいない、所属しているコミュニティの規模が小さい


・自己認識の歪み

ex.自分の特性を理解できない、自己評価が低い、社会生活での自分の位置付けが下手



です.








例えば、家庭環境が良くても

周囲の環境が悪ければ

自己認識の歪みが生じるし

また逆も然り.





生まれた時から

上に挙げた条件が整いすぎていたら

自己形成がうまく行くわけがない.


「親に捨てられたらどうしよう」

「相談相手がいないから自分で解決せねば」

「自分が居なくなれば良いんだ」


みたいな感じで、常に不安で孤独.





他者や環境のせいにしたら

そこまでかもしれないけど、

幼少期からちょっと複雑な環境していた人間に自己愛が生まれるとは思えないんだよね…





次回はなぜそういう考えに至ったかを書きます.










おわり





振り出しに戻る

振り出しに戻ることのできる

ボタンがあったら
みんなどこに戻るんだろう.


今、こうして生きてて
時々楽しいことがあるのは
過去があってのことだからなかなかに難しい.





でも今現時点で1番戻りたいとするなら
大学3年の12月だな.
ここで全てがガラリと変わってしまった.


高校生の時から
行きたい企業があったのだけど、
そこが文系募集をしていなくて、
結局1から探し直し.


都内で一人暮らしするのも必死で
バイトをかなり入れてしまい
就活を引き延ばして、引き延ばして
結局どこにも採用されなかった.


最終まで行った企業も結構あったんだけど、
どこも僕のことを
「自信がなさそう、それでは採用できない.」
と切り捨てられてしまった

神経質さが裏目に出て採用試験の時、
眠れなくていつも完徹だった.




僕の居場所はこの世界にはないんだなあ、
と晴れ渡った青空を見てはポロポロ泣いていた.
ご飯も食べられず寝られず
とにかくその時は死にたい気持ちでいっぱいだった.



今の僕は他人に必要とされてるとわかって

死にたい気持ちは比較的おさまった.




僕は死にたいけど生きてたい.
これを読んでる人はどんな気持ちなんだろ.
必要とされたい?
死にたい?消えたい?
どうしたい?






おわり

代わりはいるでしょ

都合のいい人間なんて数多といる.



僕もきっとその「都合のいい人間」で
世の中でテキトーに使われて消費される.




そして自分も「都合のいい人間」って
自覚しているから、
都合が悪くなった人間関係は切り捨てる.




でも、これは誰しも言えることで、
関わる相手が変わると
この「都合のいい人間」に豹変する.




僕は別に「都合のいい人間」でもなんでもいい.

今まで生きてきて何度も何度も言われた
この単語だけど、
都合が良くない人間よりマシでは?
って思ってしまう.



ひねくれてるかもしれないけど、
都合のいい八方美人が居なきゃ
人間関係上手くいかないのでは?
とすら感じる.




いいじゃん、都合のいい人間.
自分が傷つかないように生きるためだよ.
言い訳じゃんって思われたって
僕は「都合のいい人間」でいたいよ.




自分だけ良い思いしたいし、
傷つきたくないもん.






おわり

穴を開けるのは身の程知らず

穴を開けたいって話を

以前ブログで書いたんだけど、



僕が穴を開けた人に
そのまま依存したい.

その人が僕を許して認めて
構ってくれる限り、絶対手放したくない.



まあ、僕が依存したいって思える人には
ある程度条件があるけど…
そこは置いておきます.




とにかく僕だけをみて欲しい.
でも別に他の人間と交流しようが、
僕に集中してくれていれば
どうでもいいんだよね.



相手は
「お前は自分以外の人間とも過度に関わっている」
というだろうが、
僕は認めてくれる人数が
多ければ多い方が安心するから、
うまく考えが合わなかったりする.



そりゃそうだよね.
すごく自己中だし横暴だし
身の程知らずって言われても
「はい、そうです」としか言えない.



僕だけをみて、そして依存させて欲しい.
寂しいよ、僕は寂しい.




おわり