頭の中のセロトニンの行方

サブカルメンヘラが何か書く

マニュアル、教科書はどこにある?

人生にはマニュアルは無くて

生きていく中で
自分の考え方をある程度固め、修正して
「こうしていきたい」とか目標や考え方が
不鮮明ながら確立されていく.



だけど、そのマニュアルが無く
不鮮明なものだということが、
事実に基づいてしか解釈できない
僕にとってはすごく困惑することなのだ.

教科書や参考書、辞書のように
目に見えてわかりやすい
そして、記録上、歴史上にも残っているものを参考にしないと
自分の考え方に確信が得られない.
人からの相対的な評価もなかなかに困惑する.

(評価されるのが嫌だとかいうわけでなく、
その評価自体が良かれ悪かれ
本当に正しいものなのか
という疑問を持ってしまうため.)




だから「生きる」っていうのは
正しさの指標や教科書がないし、
人によって捉え方が様々なので
非常に厄介なものだなと感じる.


「幸せ」とかもとても曖昧で
自分がどの社会階層にいるかでも変わってくるものだと思う.

「幸せ」だと思っていることが、
本当は「不幸せ」な可能性もあるわけだし、
一概に今起こっていることが
「幸せ」であると言えない.

これは「幸せ」を「不幸せ」に置き換えても言えることだと思う.





不鮮明で厄介な
「幸せ」に「生きる」ことに関して
教科書があれば
もっと生きやすくなる人もいるだろうし、
バカ真面目に教科書の内容を受け止めて
その通りにしか行動できない人も出てくるだろう.
(どっちがいい悪いとかないけど).


じゃあ、教科書がない中
どう生きていけばいいのかって話になるけど、
極論を言えば「じゃあ、死ぬか!」
ってなってもおかしくないと思ってる.
(死なないでくり〜〜〜).

自分の人生だし自分が好きなように選択する、
誰も「不幸せ」にしない、
教科書がないなら「生きる」意味がない、
とか考えていて
これ以上辛さと対峙できないとかならだけど.




そんな暴論(?)を吐きつつ
「せっかく生まれたんだから、なんとなくでも生きたいなあ」
と思えるようになった僕の場合は
サンプルをいかに増やすかが
課題になってるな、と感じている.
つまり他人を教科書の代わりにするってことですね.


現実で起きていたり、起こったことを
誰かから聞くなり読むなりして
自分の頭の中に情報を蓄積させ、
それを並べて紐付けていくだけでも
マニュアルや教科書がないなりに
「生きる」ことができるかな.
「生きる」ことを放棄しないで済むのかなあと.



他者がどう考えて生きているか、
そして僕はそれを見聞きしどう感じるのか、
そういう今起こっている事実を見ることしか
今の僕にはできない.
今を精一杯、不鮮明な「生きる」という
課題と向き合うにはこの方法が最善かなと.




しかしそのサンプルが少ないったらありゃしない.

なぜかって?
周りにそんな真面目な話に付き合ってくれる
友人がいないからだよ!!!!笑
白い目で見られちゃうんだよ!!笑


なのでツイッターのFFさん、
僕のサンプルになってください(?)
なんでもしまry





おわり